昭和40年11月24日 朝の御理解
昨日、寺田横丁へ行きますあの、石の、お手洗い鉢を注文してあります、久留米の玉置という石屋さんから、電話が架かりまして、その、原石になります石が、到着したから、是非見て頂くようにと、見ていただいてから、ま、仕事にかかりたいというわけなんです。それであの、今日にでも見に来てくれというご指示でございましたから、幸い、昨日は、高芝さんが、現場のほうへ見えていましたから、来て頂いて、高芝さんの車で、二人であちらへ見に参りました。見事な石が来ておりました。帰りでございましたけれども、えー、あの、三号線に、何というですかね、丸星か。有名なラーメン屋さんがある。週刊誌なんかでも、日本一のラーメン屋と、なんか日本一と聞いただけでも私、魅力を感じるのですね。そして、そこのご主人というのは、私が、知っているんです。その、奥さんがここの村から行った人なんです。それで、日本ゴムか日本タイヤかです、どっちかに出よんなさった時分のことから、終戦直後のころから、知っておりますもんですから、是非、一遍、寄ってみたい、寄ってみたいと思うておりました、どういうような生き方、どういうようなあり方をすりゃ、あれだけ流行るだろうかと。一遍、福岡の人たちに話しましたよ。「先生がおいでになる所じゃありません、きたのうして、どんこん、掛けられるとこの無かごたる、きたなーい店ですよ」と、こう言うておりましたけれど、昨日それを話しましたら、「ほんなら、お供しましょう」ち、言うてから高芝さんが、あちらへ連れて行って下さいました。私は、参りましてから、もう、本当に、えー、自動車の上から何時も見ておりましたけれども、あそこに、降りてみてから、びっくり致しました。車を降りてから、駐車場の奥に、お便所がある。もう、お便所は倒れかかっとる。お便所どころか、手洗う水もない。なるほどこらあ、噂に勝る、いわば、汚い店だなあと感じたんですね。それからその、店に、一歩入ってです。感じたことですけれども、それは、それでも一杯お客さんが入っておるんです。それで、こう、表は小さいんですけど、中は、ずーっと広いお家なんですが、もう、本当に、言うなら、汚らしいお店なんですけれどもです。丁度、椛目の御広前に入ったような感じでございますね。はあ、御広前の真ん中に柱が、こうやってあって、それで、そこが継ぎ足ししてあったり、ここに半端ものの畳があったりというような、まあ、そういう感じなんですねえ。そして、私は、まあ、色々、思うんですけれども、兎に角、例えばあの、おー、どういうですかねえ、大体、食べ物屋というのは、清潔できちっとしておるというのが、本当ですけれども、あれでいて、なるほど沢山の、お客さんが、折角ラーメンを食べるなら、あそこだと。「おい、三号線で、何々のラーメン食べたか」と言うくらいに有名だということは、どういうその、有名になる、繁盛することがあるだろうかという事なんですね。どうでんまた、ああ繁盛するためには、何時もああ、きたならしゅうしとかなならんかということなんですね。あら、妙な、人間の心理というですかねえ。もう、おでん屋さんなんかでも、こう、おでんの台の前に、もう、おっせがっせして、座れるところが流行ってるですもんね。かえって、綺麗にして流行らない、というような例は幾らもありますけれども、そんなら、私、この頃、小倉に参りますときにあの、福岡小倉間にあります、駐車場、大きな駐車場を持った大きな食堂が、ございましたですね。あそこで、あの、一服いたしましたです。それでも、立派に、ドンドン繁盛しておる。それは理由のある、便所一つのことですけど、すいじょうの(水洗の)便所が、お手洗いがありまして、ね、本当に、途中でちょっと下車して、昼食でもさせて頂こうかというのに、ま、気持ちのいいお店です。大きなお店でもありましたが。「ね」。あれでもやはり流行っている訳なんですけれども、結局例えば、今の、あすこ、丸星というラーメン屋さんの、ご主人の内容というものが、現在のようであったらです、例えていうなら、もう、そこに、手洗いに水もないというような事でも、平気でおれれるということですね。一つも引っ掛からない、ちらかっとったちゃ。もう、こせこせしてないと。「ね」。第一、もう、沢山のお客さんが入っているが、その、黙って出て行きゃ、出て行かれようという感じ。高芝さんの話なんですけれども、もう、卵なんかもそうです。ま、日に何百と言うて売れるそうですが、湯がき卵ですね。そすと、どうしても傷がいる。傷の入ったようなものなんかは、さあ、皆さんどうぞ食べてくださいと言うてから、やっぱその、もって行かれるといったような。ま、いうなら、いかにも、損得はもう無視しておるというような感じ。
ゆうべ、私は、夕刊を見せて頂いとりましたら、たまたまラーメン屋さん、その、丸星ラーメン屋さんの事が、大きく出ていますですねえ。それが、今月は、ラーメン祭りという月だそうです、あちらで。なあるほど、そういいやあ、でかでかと書いておりました。そして、養老院のお年寄り達、それから、地元のお年寄り達を二百名から招待して、お昼に、ラーメンをあげて、そして、あそこにお地蔵さんが祭ってあるそうです。その、お地蔵さんのところで、そのお年寄り達の延命ね、長生きをなさるような祈念を、御祈念をして、そして、みかん狩りもあるち、いいよるけん、団体バスかなんかで行ったのかと思ったら、あの、自分方の裏のほうに、ちょこっとばっかり、みかん畑があるんです。そこで、まあ、年寄りの人達に、はさみを握らせて、まあ、みかんをちぎらせたと。それで、それが、大変喜んだという記事が書いて、出ておるんです。それは、広告じゃないです。新聞屋が書いているんです。「ね」。まあ、そういうようなことを、いうなら、まあ、売名的ですけど、売名的に、なかなか出来ることじゃないですもん。「ね」。例えば、表のほうには、無料宿泊所というのがあるです。ちょっと覗いてみたら、だってもう、気色の悪うして、もう、なごなれるような感じの家じゃないですけれども、これはもう、長い旅をしてきた運転手さんたちが、まあ、あそこでちょっと一服するところには好都合のところじゃないですか。しかも、無料宿泊所というふうに、大きな看板をかけて、出してございます。そんなことが、度々、一つのアイデアが当たっているわけなんですね。どうでも、今、言うように、中心である丸星さんというですかね、何というか知りませんけれども、ご主人という人が、もう、いろんな事を気にならない人です。もう、あれが、食い逃げしよらせんかと、あれが、ちゃんと見よらにゃ、あれがいくつ食べたか卵なんぞ分からんぞと、言うようなものも無いということです。いわゆる、ま、言うなら、我情我欲を捨てたというか。いわば、ま、お年寄りを大事にするといったようなことでも、それが、まあ、人見せ、人見せというとちょっと可笑しいですけれども、まあ、人から喜んでもらう為にです、しておられるということですね。そういう意味合いのことも、私は、椛目と大変良く似通っていると。私共の場合なんかは、なるほど、お年寄りなら、お年寄りに、大変喜んでもらいたいけれども、お年寄りに喜んでもらうということは、同時にそれがそのまま、神様のご覧になっても喜んで下さるような、それを、例えば、他所に宣伝しよるといったような気持ちはさらさら、私の場合は無い訳ですけれども。まあ、何か、ばかん、馬鹿ちいうたら可笑しいですけれども、そういう意味合いで、私によう似たとこがあると言えるじゃないかとこう思います。私も、やはり、本当の意味合いにおいての、日本一を私、目指させて頂いておる。そんな日本一的なおかげを頂くならです。ほんなら、現在のあの、ラーメン屋さんのあの、汚らしい所でなからなければいけんのか、また、現在の椛目のこの、おー、継ぎ足し、継ぎ足しの御広前でなからなければ、新しく、綺麗な御造営でも出来たら、もうそこで、ひれいが落ちてしまうといったようなことは無いかという、ま、福の念というものを、感じぬわけには参りません。これは、丸星さんも、ここへ見えたときはそうですが、前のほうに綺麗なお店を作ったんだそうですね。ところが、そこが全然お客さんが入らなかったということです。ですからそれを、あの、無料宿泊所にしたという話でございます。話を聞きますとねえ。あの、洋画界の有名な、青木さんじゃない、坂本繁二郎さんが、絵を送られたということでございます。最近は、久留米のブリジストンですか、の、社長さんがラーメン食べに来らっしゃったと。もう、そのような話ですけれど、そういうようなことが、その、話題が話題を呼んで、ま、繁盛しているわけなんですね。いわば、本当に繁盛しています。もう、それこそ、あの三号線には、随分、ラーメン屋さんもありましょうけれども、あのくらい繁盛しているところは無いでしょうね。まあ、それこそ、ろくそなこっでございます。「ね」。ですから、それこそあれが、食べ物のデパートといったような、意味合いにおいての近代的なです、お店にされたら流行らないということは、結局もう、丸星さんの内容だとこう思うんですね。勿論、丸星さんあたりは、もう、生まれつき大きな人だったんですね。もう、例えば、汚れてようがどうしようがですね、お手洗いに水が無かろうがですね、便所が倒れ掛かってようが、そういうことは全然。いわば、そういうとこにあまり心を使わない人。大きいんです、言うならば。「ね」。ですから、私共は、そういうほんなら、気が付かせて頂いてもです、それを黙っておるようにないようですね。いわゆる、豊かな心なんです。それで私今度、そう思うんですけれど、椛目の今度のいろいろの角度から、まあ、豪華な、立派な御広前が出来ると。椛目の時には繁盛しよったけれども、合楽の時には、繁盛しないといったような、事ではならないわけです。「ね」。丸星さんの、あちらのような無料宿泊所にでもするわけには参りませんもん、椛目の場合は。「ね」。そしてやっぱり、椛目のようなおかげを頂かねば参りません。ですから、問題は、内容を変えていかねばならんという事になりましょうが。それで、私をはじめ、ここに御神縁を頂いておる、ここの繁盛を作られる皆さんがです、どういう風に、いわば、あちらに変わらせて頂くまでには、信心の内容が変わっておらなければならないかと言うことですね。皆さん、どんなふうに考えられます。現在でも、いわば、良い信心を頂いておると致しましても、それよりもっと、垢抜けした信心、なるほどこれならば、合楽の内容の御広前として、これがあるから、合楽がまた繁盛のおかげになるのだということになるためには、私共の信心が、どういうふうに、内容的に変わらなければなら無いかということを、一つ、本気で、頂かしてもろうて、「ね」。丸星さんの内容が、いわば、変わられている。それこそ、何というですかね、清潔好きとでもいうですかね、「ね」。几帳面とでも言うでしょうか、それこそ、近代的な設備の、きちっとした、本当に、食べ物屋なら食べ物屋さんにふさわしい、例えば、あそこにお店が出来たときにですよ、やはり、その内容が、あー、もっと、内外ともに立派になられたらです、「ね」。そこです。そこでやっぱり、繁盛されるだろうとこう思うけれども、現在のところでは、やはりあの、ビニールを引っ張りまわしたような、天井なんかそんなふうですもんね、様な店でなからなければいけ無いかというような、まあ、繁盛の元を突くとでも言うでしょうかねえ。または、なぜ新しいほうでは流行らなかったかという、そこを、ほんなら突いて見るというかねえ。それを色々と考えさせて頂くと大変面白い、いわば、面白いというですかねえ、なるほど、この、人間の心理状態とか、または、繁盛するなら、繁盛するところには、必ず繁盛の元があるということをです、分からせてもらって、いよいよ垢抜けした繁盛のおかげを頂くために、私共は、これからの信心を練っていかなければいけないとこう思うですね。
私は、先ず第一にですね、あー、なるほど、あそこに行きゃ美味しかと、安かと、というだけが、私は、繁盛の元ではいけないと、「ね」。兎に角、椛目に行けばおかげが受けられると、「ね」。兎に角、おかげが頂けるというだけではいけないと、そのおかげの内容がです、どういう信心からそういうおかげが生まれておるかということをです。私は、御道的な信心を、自分のものにしていかなければいけないと。ために、私は、今朝から、こういうことを感じます。第一ですね、「やれ痛や、今みかげをという心になれよ」と仰る。こういう信心が身につかなければいけないと思うですね。これほど信心するのに、どうしてこのようなことが起こってくるのであろうかと、言うたら、もう、信心は留まっておる。これは、まあだ私の信心が足りんからだと、一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられると仰るです。そこんところです。「ね」。これだけ信心するのにと、いうくらいな信心ではです、それは、本当のことにはならないでしょう。一にも押し、ニにも押し、三にも押しというようにです、これは自分の信心が足りんからだという、信心の気迫というものが、お互いに備わってくる。同時にです、( ? )どういう例えば、難儀に直面しましてもです、今こそ、めぐりの取り計らいを頂いておるんだと、素直にです。めぐりの取り払いと、神様のご都合と、素直に頂けれる信心です。そういう信心が、私は、本当に、お互いの上に身についていかなければ駄目だと。さあ、椛目に参りよったばってん、参りよったらかえって悪るなったけん、辞めた。というような信者さんのなりようでは駄目だということ。「ね」。椛目に本気でお参りさせて頂くようになったら、確かに、めぐりの取り払いというものがあったと。めぐりの取り払いを頂きながらです、「ね」。それが、めぐりの取り払いを頂いて、めぐりの無いおかげをこういうふうにして頂けたという信心。「ね」。それには、これはまだ、私の信心が足りんのだという一心の信心。そういう信心が、お互いの、信心の内容になってです、私共が、合楽に移らせて頂いたらです、「ね」。いよいよ、こういう信心を持って垢抜けした信心というのじゃなかろうかと思うのです。まあ、ちょいとおまいりして御覧なさい、もう、それは、有り難かと、おかげ頂くと、御理解が有り難かと、というだけで、わんさ押しかけておるだけではです、私は、おそらく又、椛目さん舞い戻ってこなければならない。あちらへ、押し込みを精々せんならんといったような結果になりはせんかと思うのですね。そうではない。信心の本当のところを自分の身に付けていくと。「ね」。素直にです、素直に、やれ如何にみかげをと言えれる、思えれる信心。「ね」。例えば、そこに難儀なことがあっても、本当に神様有難うございます。めぐりの取り払いを頂いてと、こう、めぐりの取り払いに対して、それを、本当にそうと信じられる信心。やれ痛や、今みかげを、やれ痛い。けれども今こそにみかげを頂いておるんだという、心、思い込みが出来れる信心。そして、このまま信心進めるというのではなくてです、このままだと、信心が足りぬからだと、前進に、前進すると言うような信心の迫力というか、気迫を持った信心。「ね」。そういう信心を垢抜けした信心と言うのじゃないかと思う。そういう垢抜けした信心をもってしてです、垢抜けした教場、垢抜けした御広前でです。いよいよ動かない、いよいよ繁盛の一途を辿るであろうような、おかげ、ひれいというのが、頂けるのだと。どうでも、私共がです、そういう信心を、一人一人が、本気で身に付けさせて頂いて、合楽教会の、先生であり、または、信奉者であり信者であるというような、おかげを頂きたいとこう思っているのでございますけれども、昨日、その、まあ、日本一のラーメン屋さんに参りましてからです。どこが、まあ、日本一といわれるような、ま、新聞、雑誌で騒ぐくらいな、その内容であるかというと、「ね」。まあ、汚らしい店という、ということだけではなくてです。「ね」。その、中にある内容が、大きいということ。それは、生まれつきそういうような人らしいですけれどもです。「ね」。例えば、卵、三つ食べられても、「ひとつしか食べとらんよ」ち、言うて払う、そう、行く人も随分あるらしい。そげな事は全然眼中においとらんかのようにしておると。そういう、いわば、太さ。その代わりに、便所に行ったっちゃ、手洗いもなかち、いうごたるその、大雑把の所もあるという。「ね」。便所は、こうやって、倒れ掛かっておるといっても、平気でおれると。それでいて、何かなし、人の心にこう、食い入るようなもの。「ね」。お年寄りを大事にするとか、そのお年寄りの、命乞い、命乞いというか、長生きを祈る会をするというとか。お年寄りにラーメンを食べてもらうとか。それは、本当に芯からのものじゃないに致しましても、その様なことが、まあ、大衆に受けておるというような、感じですね。椛目の場合はそこんところが、確かにそういうようなことがあるですけれども、それが、言うなら、人に見てもらうためではなくてですね。やはり、あの神様に見ていただいても恥ずかしくないような、内容を持ってしておる。そういうようなことが、まあ、椛目の、繁盛の土台である、元であるとするならです。「ね」。それだけではいけないと。そこに信心を頂いておる私共の、信心の内容というものが、垢抜けしてこなければいけない。垢抜けしたところには行かれない。「ね」。垢抜けとは、只今申しましたような、内容を持った垢抜けした信心を、いよいよ、身に付けていかなければならんなと、いうような事を感じましたんですけれどねえ。皆さんも、もしあの、機会があったら行って御覧なさい。どこが、ああ繁盛しておるところだと感じるか。「ね」。なるほど、小さいことを、くよくよ言うたり、けちけちしたり、したんでは、おかげになるもんじゃないなということをですね。ほら、もう、一杯売って幾ら儲かると、計算ずくで商売しているのではなくてですたい。もう、よかよかちいうごたるふうなその、生き方なんです。「ね」。言うなら、馬鹿のような信心です。「ね」。なるほど、馬鹿と阿呆で行くということが、私は、おかげの元であると。そんなら、本当に馬鹿と阿呆になってしもうたんじゃつまらん。私が言うのはです。「ね」。馬鹿と阿呆じゃなかじゃろうかと思うくらいに、内容が大きい信心であって、そして、実は、利口であり、かしこなからなければいけない。こうなれば、いよいよ完璧なものになってくるのじゃないだろうかと思いますね。どうぞ。